2004年10月23日 17時56分
新潟県中越地震発生
震源地 新潟県中越地方
最大震度 7
この時、私は日本にいなかった。
ニュースで日本の大地震を知った。
「俺の故郷・・・
見覚えのある景色ばかりだが、破壊されてる。」
帰国後、行くしかないと思った。
南町田から田園都市~半蔵門~東武鉄道~野岩鉄道~会津鉄道~高速バスで新潟に入り、無事に実家に到着
初めて、災害ボランティア活動に従事。
生まれ故郷を取り戻すために。
『昨日まで新潟、中越。
今は、その新潟から東京に向かう道中でメールを書いています。
生まれが新潟で、今回の地震のボランティアに行っていました。
走っている高速道路の路面はうねっています。
幸い実家は被害なく無事なのですが、以前に震源のすぐ近くで仕事をしていたので、他人事ではなかったのです。
変わり果てた故郷を見て、言葉がでませんでした。
そこにはあるものは、
崩れた山、根こそぎ剥がされた森、むき出しになった地肌、
堰き止められた谷、濁流と化した川、決壊した養鯉用の池、
寸断された鉄道、傾いた電柱、倒れた家屋、
役目を終え、燃やされ天へ登る白い煙となった大黒柱の数々、
まるで積み木崩しのようになった墓石、
疲れきった人々、避難所の隅で無言で泣く子供らと無邪気を装ってはしゃぐ子供ら、
貴重な財産である錦鯉を失い途方にくれる人々、
否応なく送りつけられてくる公共料金の請求書をじっと無言で見つめている人、
冷たい床と高い天井の体育館の中で、未だに続く余震に耐え、
永年農作業で酷使してきた膝や腰をかばっているお年寄りたち、
四畳半程のスペースに肩を寄せ合って寝泊りする家族、
頻繁に空を飛び交う何機もの自衛隊のヘリ、
昼夜問わず被災者の対応に追われる役所の職員、
ニュースのねたを求めて奔走する報道陣。
全てが、日常では考えられない光景ばかりでした。
もうすぐ、雪が降ります。
あるおじさんが言ってました。
『去年の初雪は10月。雪は3メートルにもなる、昔は5メートルも積もったものだ。』と。
幸いにも今年はまだ里に雪は降っていません。越後の山々は既に雪化粧。確実に過酷な冬の足音は近づいています。
その雪が今後の人々の生活にどんな影響を及ぼすのか、誰も予測できません。中山間地の倒壊した家の片付けは雪解け後、来年のゴールデンウィーク頃になることでしょう。
雪解け水で、さらに山は削られます。被災地の家屋は雪の重みに耐えられるのか疑問です。
『来年の春まで、家には帰れん。』と寂しげにおじいさんが言っていました。何も言ってあげられなかった。
神戸の人が言っていました。『阪神大震災の時、我々は農家からの米に助けられた。』と。米は日本の心と勇気だと感じました。
今回は、米を供給する側が被災しました。農地は壊滅状態になり、来年の稲作の目処は立っていない。農業を辞める農家もいます。
日本の心が消えようとしている。悲しい現実でした。
しかし、そこには新しい希望と情熱が既に芽生えていました。
人々は全国各地からの物資、自衛隊、警察、企業、ボランティアによって支えられ、そして勇気をもらい、自分達の生まれ育った故郷を再生しようとがんばっています。雪国根性で弱音を吐かずに、必死になっています。先人達が築いた文化と歴史を受け継ぐために。
我々の命を支える水、米、酒を供給し、四季とやすらぎを恵み、そして共存してきた大地、自然が牙をむいた疑いもない事実に目を背けることなく、、、
被災地では過去に災害から復興した神戸をはじめとする、長崎島原、宮城の人々の知恵とリーダーシップが大いに役立っていました。
今回、我々はボランティアを通して、とても貴重な経験をしました。
新潟を遠くから支えて頂き感謝しています。
がんばります、立ち直ります、新潟は。
今後も応援してください。
偉そうですが、新潟を代表して御礼申し上げます。
氏田 勝栄 』
故郷を心配してくれた友人知人に宛てたメール。